「父への思い」
2000 Oct.22 Word By Kenji Kanno
20年が過ぎた
寡黙だったが
自分には超えることのできない
威厳に満ちた人だった
物心がついたときには
既に社会的に地位があり
幼心にそれが誇りでもあった
また何よりも他人を大事にする人だった
それが嫉ましくもあり
複雑な思いをしたこともある
過酷な戦争が病の因子を宿らせ
30数年後に死に至らせた
至道院力行良忍居士
戒名が父の有様をよく示している
自分の二十歳の餞に
初めて戦争について語ってくれた
軍の所属は近衛師団逓信隊
赤紙で徴収され
相模原富士演習場で訓練を受けた
重い背嚢が肩に食い込み
足が棒になるほど歩く走る
それを尻目に
将校は馬に跨り颯爽と駆けて行く
何としても将校にならなければ
という強い欲求がふつふつと沸いてきた
将校になるにも今も昔も変わらない
試験の世界である
勉強の時間は消灯後である
蝋燭や月明かりで頑張った
上官試験の前夜
勉強中に火の玉が飛ぶのを見た
父が会いに来たのだ
葬式に帰ることなく試験を受けた
父もそれを望むだろう
見事合格
颯爽と駆ける馬を手に入れた
少尉の誕生である
さっそく南方戦線に赴く
シンガポール攻略戦である
小隊長として通信確保の任にあたる
電柱を立て電信線を張る
日本軍の勝利であったが
ジョホール水道には
累々と戦死者が横たわり
水面は石油で黒光りし
地獄を見る思いであった
昭和18年内地に戻り結婚する
新婚生活1年も経たぬうちに
千島列島に中尉として送られる
南方から北方
過酷な環境化であった
終戦間際ソ連が参戦する
ソ連との戦闘が続く
昭和20年8月15日
終戦である
浴びるほど酒を飲んだ
腹を切り天皇陛下に詫びる者もいた
しかし自分は生きようと強く思った
終戦後もしばらく戦闘は続く
何度か白旗を掲げるが
敵は応じる気配なし
終戦を知らないのか
やがて降伏
一切の持ち物を没収された
我先にとソ連兵が略奪して行く
浅ましい奴等だ
将校は缶詰工場に収容された
三日三晩缶詰で飢えを凌ぐ
ウラジオストックまで船で送られ
輸送列車に乗せられた
粗末な貨車である
一路北に向う
寒さが身にしみる
貨車の木枠を剥がし火を焚く
さすがに日本人だ気転が利く
三日目に貨車から降ろされた
目的地に着いたのかと思ったが
単なる休憩だった
それからさらに四昼夜
体の節々の痛さが限界の頃
シベリアに着いた
それから2年の間
強制労働の日々となる
2年で日本に帰れたことは
幸運だったに違いない
多くの仲間が過酷な環境下で命を落とした
我々は戦争とは無縁の平和を謳歌している
戦争が良い訳はさらさらないが
この戦争を体験された人々には
軽々には語れない幾多の思いがあるに違いない
それらの人々に耳を傾けよう
真実の歴史を語り継ぐために
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